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亀有教会小教区設立50年を迎えて

コンベンツアル聖フランシスコ修道会 

日本管区長 ルカ谷崎新一郎

 

 亀有教会は小教区として50年を迎えました。実はわたしと同じ歳で、わたしが生まれた年に、この教会は小教区となりました。わたしたちは生まれたときにみんな名前をもらいますが、この教会も名前をもらいました。普段は亀有教会と呼んでいると思いますが、もう一つ聖フランシスコ教会という名前があります。これが、教会としての正式な名前です。ここで聖フランシスコがどのような人だったかをあらためて思い起こしたいと思います。

 聖フランシスコは800年前の人で、お金持ちの家に生まれ、たくさんの友だちがいました。しかし、怖くて近づきたくないと避けていた人たちがいました。それはハンセン病を患った人たちです。当時は、ハンセン病は不治の恐ろしい病気でした。ところが、ある日、聖フランシスコは神様からとてもやさしいこころを頂き、突然ハンセン病の方たちを受け入れ、この方たちのお世話もできるようになりました。聖フランシスコによると、このときから彼は新しい人生を歩みはじめるようになったということです。

 それ以来、皆に恐れられていた狼も、イスラムの軍隊の司令官も、セミなどの虫も、この世の中にあるすべてのものは兄弟姉妹であり、神様のあたたかなこころを分かち合う存在であるとみなすようになりました。実際、聖フランシスコと出会った人や生き物は、聖フランシスコを通して神様のあたたかなこころに触れ、あたたかなこころを持つようになりました。聖フランシスコは、わたしたちがどのようなところにいても、神様、イエス様が共にいてあたたかなこころと伝えてくださっており、そのこころをすべてのものと分かち合うようになりました。

 亀有教会は、このような素敵な聖フランシスコの名前をもらっています。ですから、聖フランシスコの姿を思いめぐらしながら2つの大事なことをお伝えしたいと思います。それをこころに留め、これからも歩んでいただけたらと思います。

 1つ目は、神様、イエス様のやさしさについてたくさん思いめぐらすことです。今日もいつものように目を覚ますことができ、今、息をし、心臓が動いています。食事を通して、たくさんのいのちをいただき、いろいろなことが出来ています。それは、神様が支えてくださっているからです。わたしたちは、生まれたときは弱く、何もできない存在でした。今があるのは、これまでとても多くの方々を通して神様に支えられ、生かされ、ゆるされてきたからです。しかし、わたしたちはそのことを忘れ、自分の考えていることが一番優れているんだというように怒ってしまいます。これは残念なことです。ですから、1日に1回は、神様、イエス様からいただいているやさしさについて思いをめぐらしてみたらいいのではないかと思います。

 2つ目は、イエス様のあたたかなこころを思い起こして、他の人にやさしくすることです。イエス様は、わたしたちが神様の望みに背くようなことをしても絶対に見捨てずに一緒にいてくださる最高の友だちです。この教会の50年の歴史の中では、ケンカもあったと思います。それで去っていかれた方もいると思います。その時のこころの傷を抱えている方もいると思います。でも、イエス様はいつもここにいらっしゃいました。イエス様はどんな人でも絶対に見捨てることはありません。そのイエス様は、わたしたちみんなに、やさしくしてほしいと願っています。今日の福音にもこうあります。「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。……わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい」。御父がイエス様をとても大事にし、それと同じようにイエス様はわたしたちのことをとても大事に思ってくださっています。このことをよく思いめぐらし、そのあたたかなこころ、やさしさを思い起こして、それをみんなで分かち合えたら、と思います。

 繰り返します。1つ目の大事なことは、イエス様のやさしさについてたくさん思いめぐらすことです。2つ目の大事なことは、イエス様のあたたかなこころを思い起こして、他の人にやさしくすることです。

 とは言え、怒ってしまったり、苛立ったりして、うまくいかないこともあります。そのようなときは、「ごめんなさい」とイエス様に素直に謝り、「あたたかな人になれるよう助けてください」とお願いしたら良いと思います。イエス様は、きっとそのような姿を喜んでくださると思います。

 これから50年、100年の未来に向かう亀有教会が、いまお話しした2つの大事なことをこころに留めて実現できるよう、歩みを続けていただけたらと思います。

 まずは、神様、イエス様から支えられ、生かされていることを沈黙のうちに味わってみましょう。

2017年鐘5月号巻頭言

 聖母月に・・・ 

助任司祭 ミカエル山浦義春

 

1971年5月にカトリック亀有分教会は三河島教会から独立し、小教区の認可を受けました。この時に旧聖堂も大司教様より祝別をいただいています。それから20年後の1991年5月には、現在の聖堂が献堂され、祝別を受けました。現在、それからさらに26年後の5月の聖母月を迎えようとしています。この亀有においては5月の聖母月は、小教区設立や聖堂献堂の記念もあり特別なものです。今月の第二日曜日(14日)のマリア祭は亀有教会の歩みが聖母マリア様を通して、神様の御手の中にあることを記念しています。皆さん教会に足を運び、喜びを共に分かち合いましょう。

同じようにカトリックという世界に広がるキリストを信じる者にとって、今年は記念するものがあります。ちょうど100年前の1917年という年は第一次世界大戦が勃発した年であり、コルベ神父様がローマにおいてけがれなき聖母の騎士信心会(現在 けがれなき聖母の騎士会)を創立された年でありましたが、それ以上の出来事が起きました。それはファティマの聖母の出現です。つまり、今年はポルトガルのファティマに聖母マリア様が出現されて100年という節目の時を迎えています。1917年5月13日から、ファテイマに住む、ルシア、フランシスコ、ジャシンタの3人の子供の前に聖母マリア様が数回にわたり出現されました。その時に、地獄の存在、戦争の終焉と勃発、ファティマ第三の秘密が語られ、現世的な生活の悔い改め、世界平和のために祈ること、五か月連続で初土曜日に聖体を拝領することを聖母マリア様が強く望まれました。私たちが初土曜日に教会に行くことは、このファティマの出来事に由来しています。教会はこの出現を記念して5月13日をファティマの聖母の記念日としています。

2017年5月、いくつもの意味で特別な聖母月を過ごす私たちです。聖母マリア様のみ心に思いをいたし、取り次ぎを求めて祈りましょう。世界平和のために。回心の生活ができるために。そしてお互いの一致のために。

2017年鐘4月号巻頭言

 卵を探そう 

主任司祭 ミカエル 山浦 義春

 

東京ディズニーランドでも「イースターエッグを探そう」というエッグハント企画があることを耳にしました。ここ数年、そのような企画が行われているとのことです。12月のクリスマス商戦と同じように、復活を象徴する「イースターエッグ」が、キリスト教を信じているわけではない人たちや、キリスト教を知らない人にまでも伝えられていることには驚きます。このような流行は東京ディズニーランド以外でも行われているのだろうと想像します。しかし「イースターエッグ」の本当の意味を主催者は伝えているのだろうか。また受け取る側も卵を手に取って本当の意味を理解しているのだろうかと疑問が頭をかすめます。そして私たち信徒も、復活祭をよく理解しているのか考えてみることが必要と思います。それでは質問です。まずどうして復活祭に卵なのでしょうか。それは卵が生命の誕生を意味するからです。キリストが十字架上で殺された後、父なる神様によって生命が与えられ復活の賜物を受けられたことを象徴しているからです。ではどうして父なる神様はキリストを復活させたのか。それは、父なる神様のご意志をキリストが生命をかけて全うしたからです。そして、それはキリストのように生きるならば、私たちもキリストのように復活できるという信仰の保証を与えるものでした。最後に「エッグハント」とは何でしょうか。それは生命の象徴である卵をモチーフとして作られた卵型容器の中に様々なお菓子や宝物がつめ込められていて、それを探すというものです。これには失った大切な宝物を見つけるという意味であり、私たちが居なくなっていたキリストを見つける、自分の幸せを見つける、卵の中に存在する復活したキリストを見つけるという意味が込められています。私たちも信仰の内にキリストを、卵を探すことが出来ますように。

2017年鐘3月号巻頭言

 40という数字 

主任司祭 ミカエル 山浦 義春

 

四旬節とは復活祭の46日前の水曜日から復活祭の前日の期間を指し、カトリック教会ではキリスト者は特にイエス・キリストの歩まれた道を心に留め、父なる神様から愛されていることを感じ、改めて神様へ立ち返る回心と償いのうちに過ごします。回心と償いのあらわれとして、周りの人のためへの祈り、施し、奉仕、断食を行います。また四旬節は洗礼志願者の入信の準備の期間にあたるため、洗礼志願者のために祈ると共に、すでに洗礼を受けた者は自らの洗礼を思い起こし、イエス・キリストを通して父なる神様との、そして教会とのつながりを意識する期間でもあります。先程、四旬節は復活祭前の46日から始まると言いましたが、この期間中に含まれる6回の日曜日(主日)を除くとちょうど40日になります。40という数字はカトリック教会において特別な意味が込められています。聖書をひも解くとノアの方舟のにおける40日40夜の大雨、出エジプトにおける40年間の荒れ野での生活、ヨナによるニネベの人々への回心を求める40日、イエス・キリストの40日の荒れ野での断食と、聖書では40という数字は、神様とのつながりを求め、これまでの自分を見つめ直し、誘惑との葛藤の後に神様のもとに立ち返る回心」という言葉に凝縮されると思われます。四旬節は文字通り四・十日・行事のことですが、それは聖書のこのような意図を伝えているのです。このように復活祭前の準備期間が40日となったのは7世紀頃からと考えられています。カトリック教会では40という数字以外に、弟子、新しいイスラエル王国(部族)をあらわす12や6、7なども特別な数字です。灰の水曜日からはじまる四旬節に、私たち一人一人がイエス・キリストが伝えてくださった父なる神様の愛を深く感じ、神様に近づくための回心、つながるための祈りや奉仕を行うことが出来ますように。

2017年鐘2月号巻頭言

 宣教活動 

主任司祭 ミカエル 山浦 義春

 

カトリック教会の典礼暦では、降誕節の主日である主の公現主の洗礼のあとに年間という季節が始まります。年間はイエスの宣教活動(神の国を伝える父なる神の愛を伝える)を受け止め、神さまの言葉を聴いて成長するという意味があります。そのため年間に着用する司祭祭服(儀式用服成長を意味する緑が使用されます。今年の2主日、四旬節が3月に始まるので、すべて年間という季節になります。年間という季節を通してイエスは何をしているのでしょうか。マルコ福音によると、イエスはガリラヤのナザレからきてヨルダン川で洗礼を受けた後、ガリラヤ地方に行き神の国の福音をべ伝え始めました。ガリラヤの山で12使徒を選び、共に活動され、宣教にまわられた地域は主にガリラヤ湖ほとりカファルナウムゲネサレ地方、湖の向こう岸ゲラサというエルサレム神殿から見ると辺境の地であったことが記されています。ユダヤ教の中心であるエルサレム神殿付近ではなく、エルサレムに住む同じ民族ユダヤ人が忌み嫌う地域で宣教したということを通して、神様の愛を伝えるイエスの思いを知ることが出来ると思ます。れらの地域の人々は他民族支配の歴史が長く、混血ということで軽蔑され、救われるはずのない人々というレッテルを張られ、神様救いから遠く離れているという絶望的な状況にありました。福音書の中でイエスは「私は健康な人のためではなく、病人のために来た」という言葉を発しています。イエスの宣教活動は差別され、神様から遠く離れている人々に、神様とつながり、民族の一致、救いの希望を与えるものでした。第二バチカン公会議以降、洗礼を受けた者はすべてイエスを伝える使命がある強調されています。私たちも自分の周りを見、弱い立場の人、困っている人、教会に来れない人に手を差し伸べる勇気を持つことが出来ますように。そして、私たちは兄弟姉妹であるという気持ち共有出来ますように。こそイエスが大切にされていたことです。年間という季節を通して、私たちも同じように活動していくことが出来ますように